ものづくりエンジニアの徒然日記

のんびりゆるーく気になったことやメモ書き代わりに更新したい。

祖父が他界しました ~当時の状況の備忘録~

昨晩、祖父が亡くなった。享年96(94歳没)と長い人生を全うした末だった。祖父の死亡確認から葬儀屋への引継ぎまでの流れを何が起こったか備忘録としてここに記録しようと思う。

2023年1月21日22時、私に祖父が倒れたと母から連絡が入った。私がパソコンの前で作業していると母からLINE通話がかかってきた。明日、実家に行って母と会う予定があったのでそのことかなと思いながら通話に出た。母からの第一声は「おじいちゃんが死ぬかも」というものだった。何事かと母に尋ねると祖父の脈がなく、顔が青白くなっていることに姉が気づいて緊急搬送されているとのことだった。私は実家から車で30分圏内の場所に住んでおり、母から一緒に来てほしいと要請され承諾した。搬送先の病院と実家の間に私の住む地域があるので母が迎えに来ることとなった。母との会話が終わった後、妻に祖父が亡くなるかもしれないこと、今から病院へ行くことを伝えた。妻も実家に顔を出す予定で、久しぶりに私の祖父母と会話できることを楽しみにしていたので非常に心配していた。

少し月日を遡って昨年11月、実家家族で新型コロナウイルス感染症が蔓延した。実家家族は祖父、祖母、父、母、姉の5人で構成され、この時に母以外は皆感染した。祖父が感染したときに祖父自身が自分で動くこともままならない状態となり、近くの病院に入院して治療した。無事新型コロナからは回復したが、体力が衰え、ベッドから起き上がることができなくなってしまった。その後、リハビリ病棟へ移って祖父は家に帰りたいという意気込みでリハビリを頑張っていた。新型コロナのせいで直接の面会はできなかったが一度オンラインでの面会をする機会があった。祖父は歩行器を使いながらも自分は動けるし問題ないとアピールするようにリハビリする姿を見せてくれた。祖父と会話している中で父を差し置いて私に「家のことは任せたぞ」と言われ、「任されました!」を返した。それが私と祖父との最後の会話となった。祖父が退院するまでに訪問介護やデイサービスなどの手続きに母が奔走していた。1月19日に祖父が退院して実家に戻ってきたと連絡があった。近々夫婦で顔を出しに行く旨を母に伝えており、その予定日が22日、23日だった。退院後の祖父と直接会話することもできず訃報を聞くこととなった。

22時20分頃、母が私の家まで姉と一緒に迎えに来た。車内の会話の中で祖父の心肺蘇生処置が中止されたことを聞いた。話を聞くと、祖父母間では延命措置を施して病院に寝たきりになるよりもぽっくり逝くほうがいいと話していたため祖母が延命措置をせずに受け入れてくれる病院を探すと実家から40分ほどかかる少し距離のある病院になったそうだ。
22時40分頃、緊急搬送先の病院に到着した。到着後、すぐに案内され祖父の遺体と対面した。父は救急車に同伴していたため既に病院におり、祖父の横でうなだれていた。祖父の顔は呼びかけたら反応があるのではないかと思うほど安らかな顔で眠っていた。病院の先生から搬送中の状態について説明を受けた。
23時頃、病院の先生立会いの下、死亡確認が行われた。死因の調査についてCTスキャンを行いますか?と医師から確認があったが家族全員が満場一致で老衰による死亡であると受け入れていたため断った。その後、警察から連絡があり、検視のためにCTスキャンをしてほしいと連絡が入った。警察からは故人が自宅で亡くなった場合は検視が必要で、そのために死因解明の調査にあたるCTスキャンをする必要があると伝えられた。病院へは来ていなかった祖母に電話で確認を取って死因調査の実施について受け入れることにした。検視が始まり待っている間、何度か警察の方がこちらへきて死亡発見の時刻、状況について詳しい説明を求めてきた。さらに死亡発見場所、つまりは自宅の確認をする必要があるとのことで自宅に残っている祖母に連絡し、警察の方が来るから対応してほしいと伝えた。その後、病院の待合室でいつになったら終わるのだろうかと思いながらただひたすら待つことになった。
翌2時頃、警察の検視が完了し駆け付けた警察官の方から死因についての説明と状況から事件性がないことを認める旨を伝えられ帰っていった。その後、改めて医師から死因について解説があったが明確な原因は不明で内臓が何らかの理由で停止して死亡とのことだった。その後、病院側から遺体を葬儀場に送るのでどこに送ればいいかを確認された。祖母が互助会の会員になっていたためそれがどこの葬儀場だったかを祖母に確認した。しかし祖母は痴呆がひどくなってきており、聞いた情報が正しいかを確認するため葬儀場に会員に入っているか確認し情報に齟齬がないことを確認した。その葬儀場を病院側に伝えると病院から連絡を取ってくれて、遺体を迎えに到着するのが4時頃になるとのことだった。葬儀屋が到着するまでの間、母が病院に残り、私と父と姉は帰宅することにした。
翌3時頃、私たちは母を残して病院を後にした。私が車を運転し、父と姉は後部座席で寝ているようだった。
翌3時30分頃、実家に帰宅した。帰宅後、祖母と少し会話して警察が来て写真をたくさん撮っていったと聞いた。その後、祖母が祖父の通帳が見つからないと言っていたので一緒に捜索することにした。重要なものを入れているという場所を聞き、無事発見することができた。株式などの金融資産は昨年すべて現金化していたと聞いた。
翌4時頃、母が葬儀場に到着したので迎えに来てほしいと依頼され、葬儀場に向かった。葬儀場につくと祖父が居る部屋に案内された。部屋には横たわった祖父の御前に三具足(花立、香炉、火立)とお線香、おりんなどが置かれていた。部屋に入ってまず祖父にお線香をあげた。改めて祖父が逝ってしまったことを実感したのか少し涙が出た。その後、葬儀屋から今後の段取りについて説明を受け、お通夜、葬式の日程が決まった。そして、葬儀屋は実家のすぐ近くだったので病院に来ていなかった祖母にお線香をあげに来るかどうかを電話で尋ねた。すると行きたいとのことで迎えに行くことにした。祖母を迎えに行くついでに母から食べ物を持ってきてほしいとお願いされた。母は仕事から帰宅後、夕飯を食べる前に病院へ向かっていたのでずっと空腹だったので快諾した。祖母を迎えに行くために実家へと車を走らせ、実家からパンと水をもって祖母と一緒に葬儀場へと向かった。祖母が祖父と対面すると少しだけ祖父のほうを眺めてお線香をあげた。祖母は般若心経を心得ているので唱え始めた。唱えている間私は祖母をじっと見つめて般若心経を聞いていたが、時々祖母の声がか細く泣き出しそうな声になっているように思えてまた涙が出てきた。一通り般若心経を唱え終えると祖母は祖父の顔を確認するように触り始めた。祖母は耳や頬は冷たいけど額は不思議と温かいと言う。そんなことはないと思いながらもただ黙って祖母が祖父に触れているのを見つめていた。祖母は祖父に触れながら「あんた、よかったねぇ。みんなに看取られて。あんたの好きな孫も来てくれとるよ。幸せやねぇ」と言っているのを聞きながら涙をこらえることができなかった。ひとしきり祖父に触れた祖母は祖父のほうをじっと見つめてしばらくの時間、微動だにせずそのままでいた。どれくらいの時間だったかわからないがほんの数分のような気もするし数十分経ったような気もする。祖母がこちらに振り返って今後の段取りについて説明を求めてきたので翌日が通夜、明後日に葬式と初七日を行うことを伝えた。そのほか必要なものややっておくべきことなど伝えた。最後にもう一度祖父にお線香をあげて実家へと帰った。
翌6時頃、実家へ帰宅して必要なものを集めた。祖母はすぐに忘れてしまうので母を含めて必要なものの現物の確認を行った。母は9時を回ったらお寺さんに連絡するからそれまで寝られないと頑張って起きていた。祖母に今日は疲れただろうから一回寝て、起きてから後のことをやろうと促した。私も眠かったので実家から駅まで歩き、電車で自宅に帰る旨を母に伝えた。
翌8時頃、私は自宅へと帰り着き、妻が出迎えてくれた。疲れ切って眠かった私はそのままベッドへ向かいすぐさま眠りについた。

祖父が亡くなって一日たって、これを書いているときに思い出しながら時々涙を流した。祖父は94歳まで十分長生きで頑張ったと思う。本当は今日会ってお話できるはずだったのが永遠にできなくなってしまったのは本当に寂しく思うが、お迎えが来てしまったのだから仕方がない。明日からの葬儀の準備もあるので気持ちよく送り出せるように頑張ろうと思う。